今日ブログを書くために短大一年生の前期に書いたレポートひっぱりだしたら、思い出せない専門用語があり落ち込み気味です。
タイトルは「儀礼的行為の役割―公共の場でのシンボリック・インタラクショニズムと相互作用儀礼―」。・・・レポートを持ったまま数分も考え込んだあげく肝心の「シンボリック・インタラクショニズム」がなんのことだったか思い出せずネットで検索しました。。3年前の自分がこんな言葉をつかいこなしていたかと思うと複雑な心境です。いま読み上げてみたら噛みました。。
さて、気を取り直して今日の議題は「居場所」についてです。
家入一真さんの選挙では「居場所をつくる」ことがさけばれ、たくさんの若者が集まりました。10代から30代が中心の選挙事務所なんてみたことがないと関心が寄せられましたが、そこでもやはり居場所がない、居場所が欲しい、そんな声をたくさん聞きました。市民災害救助隊でも、まちづくりでも「居場所」というものにどうも関心があつまっているようです。
では、そもそも居場所とは何でしょう。
居場所という言葉には様々な意味がこめられています。
●自分が居る場所がない=所属集団
●自分が居ても良い場所がない=孤独な群集
●自分が居たいと思う場所がない=準拠集団の喪失
この3つを今日は、社会学の視点から考えていきましょう。
◇自分が居る場所がない=所属集団
まず1つめの「自分が居る場所がない」についてですが、これは言葉とおりに受け止めれば自分が存在する場所、となってしまい、いま生きている人に居場所が存在しない、という現象は起こりえません。居る場所、という言葉を所属する集団と考えてみましょう。
たとえば私であれば
日本国民、都民、練馬区民でもありますし、私の家族にとっての家族、こういったコミュニティ(地縁的な集団)に属しています。
大学生で、社会学を専攻、短歌結社に所属し、絵描きでもあり、家入ボランティアでもあり、みつばちプロジェクトに参加し、現代奴隷制についての研究者のたまごでもある、というアソシエーション(目的によって結合する集団)にも属しています。
このように、人はかならず集団にふりわけることができます。ただ、個人にとって所属しているといえるか、という点が居場所について考える鍵になりそうです。
そもそも集団というのは、日常的に会話やあいさつ、愛情交換などのコミュニケーションがあるか、お父さんやお母さんなど役割が決まっているか、所属する人としていない人という区別がされているか、といった成立条件があります(富永健一『社会学講義 人と社会の学』中公新書,2003)。
私は住民票が練馬区にありますから、行政からみれば練馬区民です。しかし、上の集団成立の条件にてらすと「日常的に区民同士でのコミュニケーションをとっていて、区民同士の集団のなかで役割があるか」という点にひっかかります。
ということは、私は練馬区に住んでいるという事実はありますが、練馬区は私にとっての所属集団ではないということになります。
では家族はどうでしょう。私は実家に住んでいますし、日常的に会話をします。子どもという役割を担っていますし、猫にとっては親であり保護者です。また家族以外の人を見分けることができます。これは私の所属集団といっても良いようです。
一人暮らしをしている場合、あるいは家族が集団として成立していない場合などは学校や会社、ママ友などがその人の所属集団として機能することになるでしょう。また、近年増加している「シェアハウス」も家族、あるいは所属集団としてとらえることが出来ます。
しかし1人でも面倒な存在である人間があつまっているのが集団ですから、かならずしも全員が満足する結果を得られるとはかぎりません。どの集団にも人間関係がありますし、集団を維持するための努力が必要になります。自分がしたいことができるともかぎりませんし、我慢を強いられることもあるでしょう。
つまり、自分の居る場所がない、とはどういうことか整理すると
●地域住人、家族という地縁的集団(コミュニティ)
●大学、会社、ママ友といった目的によって結合した集団(アソシエーション)
このどちらも集団として成立していないか、集団に所属はしているものの居心地が良くない、という場合に「居場所がない」と感じているといえそうです。
◇自分が居ても良い場所がない=孤独な群集
現代の日本では、都市部と地方というように地形的、職業的な特徴はありますが、上下水道設備が整い、道路が整備され、コンビニやスーパーなど商業施設があり、テレビがあり、インターネットがあり、娯楽施設もあり、最低限の生活様式という面ではさほど違いがあるとは言えません。
思考のしかたも義務教育の徹底がされ、身分格差もなく、テレビやインターネットの普及によって場所により思考が大きく変化するということもないと言えるでしょう。
先日もお話しましたが、市街地や、都市部においては「お互いに無関心であるように振る舞い、共同体にならない」という前提をもって暮らしているのではないかと書きました。これは共通項のない人の多い都市部や街において、衝突をさけ、秩序を保つための回避儀礼と呼ばれます。
都市部では顕著ですが、少子高齢化がすすみ、人の移動に制限がないため、地方においても町内会や青年部、消防団といった共同体的な社会集団というものが成立しにくく、希薄になりつつある現状がみてとれます。
つまり、居ても良い場所がないということは
●情報やインフラが整備されることによって暮らしやすくなったが、均一化された街のなかではお互いが衝突せず心地よく生活するために無関心をよそおうといった行動が選択されるため、共同体をつくらないという選択がされる。
このため、他者と親密に関わりあうための場所がない、ということになります。このような場合にも「居場所がない」と感じるのではないでしょうか。
このような現象を、アメリカの社会学者リースマンは「孤独な群衆」と名づけました。生活のしかたや、思考が同じような人々であっても、共同体的な社会集団との結合がなく、砂山の中でばらばらな砂粒のように孤独であるという意味です。
ちなみにですが、社会学では大きな人の群れに対しても、集団をいくつかの種類にわけて考えています。
●群集(ぐんしゅう)組織化が低く、突発的な暴動など一時的に行動をともにする集まりで非合理的な側面をもつ。
●公衆(こうしゅう)新聞や雑誌で結ばれた知識人のように世論の形成を担うマスメディアによって結ばれた合理的集団(現代ではテレビやネットも含む)。
●大衆(たいしゅう)情報・商品を能動的にうけいれるだけの存在で、孤立化し共通した目標をもたない集団。
◇自分が居たいと思う場所がない=準拠集団の喪失
リースマンは、「他人指向型の社会的性格においては行動の規範よりも対面する人々に限らずマスメディアを通じて知る人々を含めた他人の動向に注意を払ってそれに参加する。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安によって動機付けられる(『孤独な群衆』加藤秀俊訳,みすず書房,1964)」とのべています。
「自分がしたいからする」のではなく、「これをすると変に思われるからしない」「こういうことをしないといけないからする」といった不安からくる動機で自分の行動を決めるということになります。
つまり価値観や行動する動機を持つためのモデルとなる特定の集団がいないのです。こういった価値観や動機のモデルになる集団を準拠集団(じゅんきょしゅうだん)と言いますが、かんたんに言うと「心のよりどころになる集団」という意味です。
たとえば地域のなかでいえば町内会や消防団に憧れる、あるいは特定の職業や個人に憧れるといった例もあげられます。しかし身近に共同体がない、家族や教師など身近な他者以外の他者との接触が避けられる社会において、自分が所属する可能性がある共同体を準拠集団とすることは難しいといえそうです。
また、特定の個人や職業についても、本人が心から望んでいる場合をのぞき、「良い学校へ行けば、良い会社にはいれる」という希望による動機ではなく、「良い学校へ行き、良い会社に行くことを目指さなくては幸せは得られないのではないか、変に思われるのではないか」といった義務感が大きくなり、これもまた準拠集団とは言えません。
準拠集団というのは、「~らしくふるまう」というように行動を制限する面もありますが、それができたときには自分を褒める、自己承認感や、肯定感をあげるという役割も担っています。
一方で、現代は多様化がすすむ社会です。生活や思考は均一化がすすみ、何をするか、何になるかといった判断は個人に任されています。選択肢は無数にあり、どのような生き方、暮らし方をするかを選ぶ権利とともに、その責任もまた個人にあると考えられています。
話しがそれてしまいますが、たとえば犯罪をおかした人がいたとして、その人の生活環境や犯罪をおかすまえに相談のできる場所がないといった、行政の側の仕組みに不備がなかったかということよりも、その人個人がどのように育ったか、何を好んでいたか、などに報道が集中するのもこういった考え方のあらわれの一つです。時代ごとに責任をどこにおくのかという社会の考え方によって報道のされかたは変化しています。
準拠集団がないということは、こうありたいと思う自分像はみつけられず、自分らしさや社会の不安からくる基準にあわない場合には自分を承認、肯定することが出来ない、ということになります。
このような、社会が示す基準に合わない希望や価値観といったものは個人のなかですりつぶされていきます。けっしてそういうことを言いやすい環境ではないのです。
つまり、「自分が居たい場所がない」ということが準拠集団がないということであるならば、「心から憧れることのできるモデルもなく、自分自身を無条件で承認、肯定してくれる手段も場所もない」ために「居場所がない」ということになります。
◇終わりに。居場所ってなに?
さて、上の3つの項目を見ていると「求められている居場所」というものがどういうものか見えてきたのではないでしょうか。
●自分が居る場所がない
⇒地域や家族、大学や会社などで集団の一員になること
⇒居心地が好いと感じられること
●自分が居ても良い場所がない
⇒他者と親密な関わりをもてること
●自分が居たいと思う場所がない
⇒こうありたいと自分が思うことのできる人や集団の一員になること
⇒本来的な自分を承認し、肯定してくれる人や集団
上の3つの項目をふまえても、居場所とは他者と他者とがお互いを認め合い、心地よく関わり合うことのできる場所であると言うことができます。
しかし、昨日の記事でもふれましたが、「すべての人にとっての居場所をめざすのは難しい、しかし多様な居場所がいくつもあれば、そのなかで自分が心地よく過ごせる場所をみつけることができる」と言う結論になります。
どちらにせよ、自分が自分という存在であることが承認・肯定されないというのは大変に辛いことです。自分にとって一番身近な居場所となるのは自分自身であるはずだからです。
これからさき、居場所づくりを目指すのであれば、まずは自分が居心地が好いと思う場所をつくり、そのなかで一緒に心地よくすごせる人が集まってくるといった構図になるのではないかと思います。あるいは、おおきな「誰でもいて良い場所」のなかに、多様な「一緒にいたい集団」が複数ある、という構図になるのかもしれません。
自分自身という居場所があり、一緒にいたいと思えるひとたちがいて、そのなかで自分が認められ、ながく時を過ごしたいと思うこと。
これは社会的な動物である人間がもつ本当に素朴で素直な欲求であると思います。