2014年3月19日水曜日

消費する幸福、貯蓄する幸福―しあわせってなに?

みなさんこんにちは、Kazuhaです。
今日は池袋で家入キャンプのことでインタビューをしていただきました^^
このごろ、色んな方とお話させていただける機会があって本当に嬉しいし幸運なことだなぁと思います。

今日のインタビューをしてくださった株式会社小石川代表の広瀬 眞之介さん、
星の夢を運営されていて秩父市議選に出馬中の清野和彦さん、
NGOジョイン党エディ・アラカワさんとはSkpyeで対談
清野さんのツイキャスで地元が同じということで会ってくださったSakamotoさん、
家入キャンプでも秩父でもご一緒したHiratsukaさん

ついつい話し込んでしまい、2時間、5時間、7時間を越えることも・・・(-_-;)お付き合いいただき本当にありがとうございました!


2008年ごろから急増していると言われ続けているサイレントベビー(赤ちゃんの無表情化)のことや、これからの先進国の発展のしかた、マルシェ(市民運営の市)やものづくりのこと、まちづくりのこと、メディア論、政治のありかたのこと、選挙のこと、税金のこと、私自身がみているこの世界のこと、働き方のこと、他の方がとらえている国のこと、人間というもののこと、たくさんのお話をさせていただきました。

そのなかでも全員に共通してあがった話題が、

「しあわせってなんだろう」ということでした。


今日は上の皆さんとお話するなかで考えたこと、幸福は消費することじゃないと言われはじめて久しいわけですが、それがどんなことかとてもシンプルで平凡なことを、具体例をあげながら考えようと思います。


◆幸せを感じるとき、誰かに喜んでもらおうと思ったとき、どんなことをしますか?


たとえば私がなんの疑問も持たずに「幸福」が消費することで得られると考えていたときのことを具体例としてあげます。

誰かにありがとうと伝えたいとき、おめでとうとお祝いするとき、ごめんなさいと謝るとき、お疲れ様とねぎらうとき、それはプレゼント、贈り物を買うことでした。
どれだけ高価なもの、珍しいものをあげるか、この程度お世話になったからこの金額くらいのものを渡せば良いだろう、というように。

プレゼントを贈ることが悪いのではなく、純粋な好意であったはずのものが気持ちを伝える手段になり、「物を買ってそれを渡すことが好意のあらわれ」だというように、すり替わっていたと思います。

それは自分自身にも同じことで「自分にご褒美を」という言葉も流行りましたが、それはやはり消費を促すものでした。贅沢、という言葉もまた消費を意味してしまっていて、普段よりも少し高いものを食べる、美しい洋服を買って着る、化粧品を買い足す、なにか大きなものを買ったり、快適なサービスを買うことが贅沢であるという価値観を持っていました

その全てがダメだとは思いません。
そこで得られる快適さ、楽さ、所有欲がみたされたり、みんなと同じものをもつ安心感や流行ものをもつ見栄。そういうもので満たされる欲求というのも私は自然な感情だと思います。ただ、そういう方法でしか幸せが得られなかったころの自分を、私はとても乏しい、貧しい幸福感しかもっていなかったなと思います。

なぜなら消費することで、なにかを達成したり何かを得られたと思っていたけれど、私は満たされなかったからです。

このことを感じたのは数年前、当時の恋人を励ましたいと思ったときでした。いつも仕事をしていて疲れているから何か疲れをとるものをあげたい。普段じぶんでは買わないものをあげよう、甘い高級なブランドのチョコレートはどうだろう、入浴剤やよく眠れるようにアイマスクはどうだろうか・・・そんなことをとりとめもなく考えていたときのことです。

私はいつから愛情を示すために物を買うようになったんだろう?

ふと、そう思ったのです。彼のことを想う時間は幸せですし、プレゼントを考えるのは楽しい。結果として、おそらく彼も喜んでくれるだろう。だけど、物をあげることが愛情ではないし、幸せではない。

消費することで満たされるものは、欲求であって、幸せではない。
とてもシンプルな答えにやっと気付いた瞬間でもありました。



◆そもそも、自分が幸せな状態がいつか、満たされた状態がどんな気持ちか、覚えていますか?


自分がほんとうは何を望んでいるのか、というと大げさに聞こえるかもしれません。
ただ、とても素朴な疑問として、たとえば「あなたの大事なものは何ですか、あなたが幸せな時はいつですか?」とたずねられたとき何と答えるでしょうか。

家族やペットと一緒にいる時間、趣味をする時間、友達と過ごす時間、恋人といる時間、美味しいものを食べる、植物の世話をする、好きなことを勉強する、誰かの役に立つ、愛されていると実感する、自分を認められる・・・・そのような答えをあげられる方が多いのではないかと思います。

「では、あなたはその時間が一日のなかで一番多いですか?」

そう聞かれたら、はいと答えられる人は少ないのではないでしょうか。それは、どうしてでしょう。

いったい、何のために働いているのか、何のために消費を繰り返しているのか、幸せのためにと素直に答えられない現状はなにか大きく歪んでいるように思います。

うえにあげたような「幸せな時間」のために必要なものはごくわずかだ、と気付かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

生活や教育は大事な営みですが、今日の幸せを諦めて捨ててしまって10年後、20年後、30年後に同じ幸せが手にいれられるとは私には思えません。

たとえ裕福な家庭に育っても、高水準の教育をうけ、学歴を手にいれ、使いきれないほどの給与をもらっていたとしても、出来ることの幅は広がりますが、それは個人の幸せとは関係ないのです。

自分の身近な方、自分自身を思い浮かべて納得される方もいらっしゃると思いますが、そうでない方は日本という国そのものを思い浮かべてみてください。

日本は世界各国のなかでも治安がよく、都市部と農村部で生活水準がさほど違うわけでもなく、義務教育が徹底され、食べたいと思うものが食べられ、やく半数の学生が大学へ進学します。差別が原因で殺されることもなく、困窮している方へのセーフネットも整備され、全国どこでも水道水が飲めますし、たいていの物が手にはいり、情報はあらゆるところで私たちに手渡されます。宗教は自由、服装も自由、思想も自由であることが法律によって守られていますし、国の政治ですらわたしたちに委ねられています。

わかりやすく極端な例をあげますが、その国に住んでいるわたしたちは自給が10円~40円の国の人よりも、思想が反国家的だからといって投獄されたり処刑されたりする国の人よりも、女性だからといって身体を傷つけられたり恋愛ができなかったりする国の人よりも、銃撃戦のなかで暮らさなければならない国の人たちよりも、しあわせでしょうか?

ミヒャエル・エンデの『モモ』では「時間どろぼう」たちがこういった時間を「無駄、効率が悪い、生産性もない」といって未来の有効活用をうたって時間をどんどん盗んでいきました。この本が書かれたのは1973年、それも大人向けではなく子どもにむけて描かれました。

それから41年経ったいま、自分にとっての幸せってなんだろう、そのことを意識するだけでも、幸せを得られる機会は多くなると思います。



◆形にのこるもの、心にのこるもの、どちらを贈りたいですか?


さいごに、私の大好きな本の一冊、そのなかの一文ををご紹介したいと思います。中学までをイギリスで過ごし、高校になって日本に戻ることになった十七歳の少女にロンドンの現地校の教師から贈られた言葉です。

「これから日本にもどるあなたは、大人になるにつれ必ずたくさんのものがほしくなる。でもあなたは形に残るものではなく、心に残るものにお金を使いなさい。形あるものは、どんなものでもいつか必ずなくなるものだから」

『イギリス式、月収20万円の暮らし方(2004,講談社,井形慶子)』
(帯文抜粋:迷わない人生をおくるヒント イギリス人の年収は日本人より低い。しかし、将来の不安におびえて暮らす日本人より間違いなく楽しく日々をおくっている。同じ一生、同じような経済レベルでこの差はどこから生まれるのか。それは細部に宿る「幸せの哲学」にあった。)

こんなにも豊かな言葉を贈れる大人になりたい、と2004年に中学生だった私は思いました。この本を面白いよ、と手渡してくれた家族にも感謝しました。と言いつつ、冒頭でお話したように喜んでもらえる、心にのこりそうな贈り物をしたいと思っているうちに、いつの間にか消費をしてえられる満足感と便利さに慣れていったのもまた私です。

近年、若者が消費しなくなった・内向き傾向だ、という意見もありますが地元に密着した親密な人間関係を大事にしようとする動きがあります。これは経済状況にあわせた暮らし方に変わっただけではないかとも言われていますが、私にとっては国の経済状態がある程度国家として運営できる水準でさえあれば、個人にとっての欲求ではなく、幸せを追求するほうが良いのではないかと感じています。

マルシェやものづくり会、○○さんの野菜、クラウドファンディングもそうですが、人と人とのふれあいや、自分も相手も大事にしよう、大切にしようという動きが広まり浸透してきているように感じます。これはどれも売り手と商品・買い手を視覚化し、またそれを逆転可能にする、便利さのために手放した「生産と消費の循環」というものを個人の手に再び取り戻してい仕組みです。

国が発展し、流通や作り手が見えにくく複雑化していくということは、生活のなかにわからないもの、ブラックボックスをどんどん増やしていく作業です。自分達がいったい何を、誰から、何のために消費していようとしているのか、という当然といえば当然の疑問に応えるものであるともいえます。

個人もまた商品として才能やキャラクターが売買され、一方で消費者として捉えられています。何を欲しがっていて、何にならお金を費やしてくれるか、個人ではなく消費者としてとらえられると、やがて消費者としてしかものを考えなくなり、行動しなくなってしまうような気がします。誰のためか、何のためかわかりにくい生産は意気を削ぎ、もっと良いものをつくろうという気になりにくいのではないでしょうか。

家入さんや清野さんをはじめ、まちづくりや政治に参加しようという若者も増えつつあります。大好きな場所だから、大切な人たちがいるところだから、その人たちのために何かしたい、もっと暮らしやすくしてあげたい。これもまたある意味ではごく個人的とも言える幸福の追及のしかたですが、とても素直な政治のありかたのように想います。

私がいまだせる幸福論というのは、とてもシンプルで平凡なこと

自分の幸せがなにかを考えて、それをできるだけ大切にして、自分が幸せであるために生きていることを思い出して欲しいということです。幸せを日々消費して具現化したつもりになるのではなく、思い出や記憶として日々幸福な時間をつみかさね、貯蓄していくという生き方なのではないかと思います。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!