2015年10月10日土曜日

わかちあう、という幸福。

この国の経済が世界一位だった頃、ではなぜこの国の人々は世界で一番幸福ではないのか、という問いかけがなされたというのはとても面白い。

私の考える「しあわせ」って何かについては過去の記事をどうぞ

 ・消費することで満たされるのは欲求であって、しあわせではない
 http://participatory-fieldwork.blogspot.jp/2014/03/blog-post_19.html
「自分と比較する、より劣った他者がいなければ幸福と認知できない」
という結論をとりあえずこの国は出したようだけれど、それは過去の自分でも良かったはずです。
自分自身こそ、最も身近な他者なのだから。

たとえば、苦しいほどに満腹でそれでも次々に料理が運ばれてくる、隣に同じような状態の人がいて、その人の方が自分より一皿ディナーが多かったら幸福じゃなくなるなんてことはバカバカしいと思うのです。
自分の「幸せ」がなにか、どのような状態かを考えてみてください。それをできるだけ大切にする。
そして自分が幸せであるために生きていること、生きていいことを思い出して欲しい。

日々消費して幸せを具現化したつもりになるのではなく、思い出や記憶として日々幸福な時間をつみかさね、貯蓄していくこともできるのではないかと思います。
そしてそこには必ず、他者が含まれています。

私は自分の大事な人たちに幸福であって欲しいと思います。私の大事な人の、大事な人にも、同じように幸福であって欲しいと思います。それが私にとっては幸せな状態だからです。
社会のなかで、一定の生活基盤が整った現状があり、それが安定して続くだろう将来像が(たとえ幻であったとしても)提供されたとき、物質の充足と幸福とはイコールでなくなります。

お腹がすいているとき、食事ができたらそれは幸福。その横に飢えた人がいなければ幸福でないなんてことはないし、その人と食事をわけあえたらもっといいと思うのです。

・保護された姉妹、1カ月ぶり入浴 親子が月4万円で生活:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASHB97FB3HB9PTFC017.html


・「貧乏なのに進学した罰」 風俗で働く短大生:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASHB54PP6HB5PTFC00P.html